塾長のエピソード(大学院生前編)
こんにちは。岐阜県揖斐郡池田町の「のぞみ塾池田校」塾長の森です。
池田町・揖斐川町・神戸町を中心に、地域のお子さまに寄り添った個別指導塾を運営しています。今回は「塾長の経歴(大学院生前編)」について書いてみたいと思います。よろしければ「幼少期・小学生編」「中学1年生編」「中学2年生編」「中学3年生編」「高校入試当日編」「高校1年生編」「高校2年生編」「高校3年生編」「センター試験当日編」「大学受験私立・国立2次試験編」「大学生活学業編」「大学生活サークル活動暗黒編」「大学生活サークル活動充実編」「大学生活アルバイト編」も読んでみてください。
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20年ほど前の当時の一般論にはなりますが、理系の学生、特に工学部の学生の半分以上は大学院に進学する、という風潮だったので、僕自身は「大学院」というものに対してそれほど特別感?違和感?は持っていませんでした。工学部の大学生にとって「大学院」はごく普通の当たり前の存在だったのです。ただ、社会に出てからいろいろな環境で働きだすと、「大学院!?て何ですか?何するんですか?」といった感じで驚かれることがそれなりに多くあり、一般的にはレアな存在なのだなと改めて気づかされました。
僕が大学に入学した頃は、前述のような風潮があったこともあり、「当然、自分も大学院にも行くんだ」となんとなく考えていましたが、これまでに書いてきた通り、結果的に実質2年も留年してしまったので実際はそれどころではありませんでした。普通に考えれば、ただでさえ「6年間も大学生をやってしまった」ので、大学院に行くというのは金銭面でも時間の面でも贅沢なことではありました。普通の修士(マスター)を取るためには、大学院で2年間は研究生活を続けないといけないので、当時の僕の場合、トータルで8年間も学生生活をすることになります。かかるお金もかかる時間も、一般の四年制大学生のまるまる2倍以上です。
そのため、大学院進学についてはどうするか決めかねていたのですが、実は結果的に留年したことで得られた「ある事実」があり、最終的にそれが決め手となって大学院進学を決めたのです。
それはズバリ、「比較的良い学業成績」でした。
これまでに、大学生活の学業面で苦労したことは散々書いてきましたが、それでも自分の努力でなんとかなる部分に関しては、あきらめず手を抜かずにやっていました。教養科目とか英語とかドイツ語とか、専門科目でも暗記系のものとか実験のレポートとか、勉強のやりようや努力でなんとかなるものについては、「それなりの成績」で単位を取ってきていたのです。また、混声合唱団のサークルを4年間ですっぱり辞めてからは心を入れ替えて、また留年したせいで時間的にも精神的にも余裕ができたので、より学業に打ち込む(授業を休まない、レポートをしっかり出す、テスト勉強をする)ことができるようになり、さらに「それなりの成績」で単位を取り続けることができていました。普通の学生よりも2年(実際は1年半)余分に時間はかかりましたが、そのおかげで結果的に「それなりの成績」をマークすることができていました。
当時の静岡大学では成績は4段階でつけられ、「優」「良」「可」「不可」となっており、「可」以上であれば単位認定されていました(僕が大学院生になったころに「優」の上に「秀」が追加されましたが)。ですので、僕でも苦手科目(例えばプログラミングとか)は「可」でしたが、英語やドイツ語等の努力でなんとかなる科目や、専門科目でも得意分野については「優」をとることができていました。そして、最終的な自分の成績表を見ると、取った単位数こそ多くはありませんでしたが、評価自体は「優」が一番多く、その次が「良」、一番少ないのが「可」と、実は「比較的良い学業成績」だったのです。
この成績のおかげで何が起きたかというと、「大学院への推薦入学」の道が開けたのです。教授から聞いたところによるとギリギリのラインだったそうですが、推薦で大学院に進める、つまり「大学院に行くための試験を受ける必要がない」権利を得たのです。これは学部生時代の成績が「比較的良い成績」だったからです。
書き忘れましたが、誰でも何でも大学院に行けるわけではありません。大学に入学するために入学試験があるように、大学院にも進む・入学するためには試験があります。大学受験とは違った、専門科目の知識や技能が必要で、当たり前ですが塾も予備校もあてにできない実力勝負の試験です。この「大学院への入学試験」が僕が思うに最大のネックだったのですが、推薦だとそれが免除されるのです。ちょっとした志望動機書と面接さえクリアすれば、テストなしで大学院に進学することができたので、これが大きな決め手になりました。
というわけで、留年こそして今でも後悔していますが、成績自体は「中の上くらい」を取れていたおかげで、筆記試験なしで大学院進学することができました。まあ、親の経済力があったからこそなせる業でもありましたが…。ちなみに大学院での2年間は奨学金を借りて、親からの仕送りの代わりにしていました。ただ月10万円で計240万円ほど借り、利子をつけて返すことになっていたので300万円くらいの借金になていました。いろいろあって現時点で完済していますが、返さないといけない奨学金を借りるのには注意してください。今の時代、学業成績や研究実績がよければ、給付型の奨学金、つまり「返さなくても良い奨学金」をもらうことが可能になってきています。ただあくまで学業成績が優秀でないとまだまだ難しいです。僕が「将来のために勉強しなさい」といっているのも、「どうせ貰うなら返さなくても良い奨学金を貰うに越したことはない」からです。ちなみに実際に、僕の入った研究室の先輩で「返さなくてもいい奨学金」を借りている先輩もいました。ひょっとしたら僕にもそのチャンスはあったのかもしれませんが、その先輩からいろいろと話を聞いたうえで(この辺は本当に面倒なので端折ります)、普通の「返さなくていけないほうの奨学金」を借りることになりました
と、ここまで大学院の話をしてきましたが、大学院に進むのはあくまで大学を卒業してからです。大学を卒業するためには最終的に「卒業論文」なるものを書かなければいけませんが、それは大学4年生の時に1年かけて行う作業です。つまり、僕の大学院生生活の話をする前に、大学4年生になった時点から何を研究してきたのかを振り返らないといけません。
非常にややこしいのですが、僕は実質2年とはいえ、正確には「1年半」留年していたため、半年ほど前倒しで研究室に入り、その後1年間「大学4年生」をやったので、正確には「1年半」大学4年生として授業を受けたり研究をしたりしていました。
以前書いたように、半年前倒しで入ったのが当時助教授のS先生の「S研究室」でした。研究内容が地味で、教授ではなく助教授の研究室だったので当時はマイナーでしたが、S先生はいろいろと厳しかったのと一部性格に難があったので、そういう意味ではそれなりに大変な研究室でした。先輩方もいろいろと苦労していたので。それで2005年の10月にS研究室に正式に配属され、僕の研究生活が始まったのでした。
S研究室の研究テーマはいわゆる「材料工学」分野が中心で、鉄鋼などの金属やセラミックス、人間の骨などの材料を対象に、簡単に言うとその強度や破壊のメカニズムについての研究をしていました。実験の手法に放射線であるX線を用いたり、実験だけでなくコンピュータ上でのシミュレーションを用いたりするのが特徴でした。もう少し具体的に言うと、鉄鋼材料の表面にどういう処理をすると強度が増して、それはどういうメカニズムでそうなるのかX線を使った実験装置で調べたり、セラミックスでできたフィルターを3Dモデル化してコンピュータシミュレーションして(有限要素法解析と言います)その破壊のプロセスを調べたり、ちょっと変わったところでは人間の骨のCTスキャン画像を基に3Dモデル化して、その骨折のプロセスのメカニズムをコンピュータシミュレーションで調べたり、といった類の内容の研究をしている研究室でした。僕は研究内容で研究室を選んだわけではないので特に希望する研究内容は無かったのですが、実際は研究内容を希望できるわけではなく、教授から(ある意味一方的に)与えられた研究テーマをやる、といった感じでした。
そういういきさつで決まった僕の研究テーマは、簡単に言うと「セラミックスでできた材料が破壊に強くなるのは何が原因で、それをどのようにすれば調べられるか」といった感じの内容で、最終的な修士論文の題名は「放射光X線による高靭性アルミナのき裂面架橋応力場の評価」といった感じのものです。何言っているかわからないですよね。それで、研究に関して最初に与えられたミッションは、3DCADモデルを利用してFEM(有限要素法)によるCAE(コンピュータシミュレーション)で解析して結果を得る、というものでした。これらは全てコンピュータ上、つまりパソコン上で行う内容です。
ところが、今では信じられないかもしれませんが、当時の僕はなんとパソコン音痴だったのです。大学入学時に、親にSONYのVAIOのノートパソコンを23万円で買ってもらっていましたが、ろくに使いこなせていませんでした。ローマ字打ちもできずに「かな打ち」レベルでした。それまでの学部生時代のレポートやグラフ等も、提出物は全て手書きで書いていたのです。研究室に入るまでパソコンとはほぼ無縁でいました。
そんな状態なのに、研究ではいきなり3Dモデリングやそれを用いた解析(コンピュータシミュレーション)をやれと命じられたのです。これには最初は参りました。今でこそ珍しくありませんが、当時は3Dで解析を行うような研究室はほとんどなかったのです。ただ、その研究をそれまで進めていた先輩(といっても年下でしたが)から内容を引き継ぐ形になっていたので、その先輩からいろいろと教わりながらスタートしていきました。
ちなみにパソコン音痴だったエピソードとしては、セキュリティ対策ソフトの件があります。自分のパソコン(VAIO)に当時の「ウイルスバスター」をインストールしたのですが、その後にパソコンの動作がおかしくなってしまいました。何回やり直してもおかしくなっていたので困っていたのですが、研究室のK先輩がウイルスバスターのパッケージと僕のパソコンを見て、「セレロンじゃ動かないよ~」と教えてくれました。僕のパソコンのCPU(セレロン)がそのウイルスバスターの性能要件を満たしていなかったのです。確かCPUが「PentiumⅢ」以上が必要スペックだったような覚えがあります。自分のパソコンに入れるソフトも正確に選定できないくらい、当時パソコンには弱かったのです。
ですが、研究ではほぼパソコン上での内容onlyの作業でした。3Dモデリングや解析のソフトは海外製のもので、最低限は日本語仕様にはなっていましたが、マニュアルのほとんどは英語だったので、わからない使い方を調べるのも大変、というかほぼ不可能でした。今のようにネット上で大量に情報が得られたり、ましてやAIがヒントを教えてくれたりするような時代ではありませんでした。すべて自分で何とかするしかなかったのです。
また研究室では2週間に1回程度、研究の進捗発表会があり、研究生の一人ひとりが自分の研究の進捗状況について15分~20分程度、資料を用意して発表する必要がありました。資料というのはプレゼンテーション資料のことで、要は「PowerPoint」で研究内容を説明できる資料を作成することもできないといけなかったのです。それまで「Word」程度しか触ったことのない僕にとって、PowerPointは未知のもので、使い方も一から覚えるしかなかったのですが、研究室のいろんな先輩に教わって徐々に上達はしていきました。ただ、そんな状況で行った最初の研究発表では、内容や資料について教授からボロクソにダメ出しされ、「そんなの聞いてないよ」といった内容ばかりだったので参ったのを覚えています。
そんな感じで、研究自体はパソコン上でのシミュレーション中心に行っていましたが、実験としてもSEM(走査型電子顕微鏡)という装置を用いて、実際の材料の顕微鏡写真の撮影も行っていました。SEMは1台数千万円する装置で、いろんな研究室が共用で使っていました。数ミクロン単位での撮影だったので時間や手間がかかったほか、その写真から数値を割り出すのに「Photoshop」という画像編集ソフトを使う必要があり、Photoshopの使い方も一から勉強しなくてはなりませんでした。
このように、研究室に入ってからは一から覚えなくてはいけないことがたくさんあって大変でしたが、周りの先輩方がみんな優しくていろいろと教えてくれたので、大いに助かり、僕自身の実力もどんどんついていきました。研究室に入ってから半年ほどして春になった頃、教授からいきなり「プログラミングをやれ」と無茶ぶりをされ、非常に苦労したこともありました。前任者の先輩がかなり無理のある方法でシミュレーション結果を抽出していたので、それを抜本的に改善しろと言われたのです。プログラミングの講義で「可」を取るのが精いっぱいだった僕にとって、これはかなり高いハードルでした。書籍を買って色々調べたりして一ヵ月まるまるプログラミングに取り組み、当時のC言語といったプログラミング言語を使わなくてもExcelのマクロとVBAを使えばなんとかなることを突き止めて、最終的にExcelベースで誰でも簡単に任意のシミュレーション結果を出力すること、それを解析して自動でグラフデータ化できるところまでこぎつけました。今となってはどうしてそれができたのかよく覚えていませんが、当時としては我ながらよく作ったものだと思います。
その春から新しい4年生が研究室に配属され、年齢こそ2歳年下でしたが、研究生として同期ができました。そのうちのK君はとても優秀でパソコンにも詳しかったため、いろいろ教えてもらったほか、人格的にも非常によい子だったので年下ながらに尊敬していました(今も尊敬しています)。K君の研究テーマは歯車の材料強度に関する研究で、大手機械メーカーや原子力研究開発機構と産学連携で研究しており、最終的にK君はそのメーカーに大学推薦で就職を決めていました。車やバイク好きなら誰もが知る大企業です。そのくらいK君は優秀でした。K君の同級生の友だち繋がりでS君やO君など、年下でしたが新しい友達もできました。
そうして2006年の春から、引き続き大学4年生(実際は大学6回生)としての1年間が始まり、研究だけでなく、大学祭での展示発表の準備をしたりいろんな行事があったりしながらも、バイトも週4程度でやりつつ、研究活動を進めていました。研究は基本的に教授からの指示で行うものといえばそうでしたが、それ以外の部分は自分で行う必要があったので、自分なりにいろいろと考え、試行錯誤しながら進めていた覚えがあります。ブラック研究室というほど厳しくはありませんでしたが、ホワイトな(楽な)研究室というわけでもなかったので、先輩も同級生もそれなりに大変な思いをしながら研究を進めていたような気がします。
そんな感じで、1年半の研究はコンピュータシミュレーション結果とSEMによる観察結果で構成され、それを元に卒業論文も書いて卒論発表プレゼンテーションも作成し、2007年初春を迎えました。卒論発表のうち、「概要」と呼ばれる卒論内容の概要をまとめたA4プリント2枚分の提出の2、3日前に祖母が亡くなったため、直前で帰省があったりしてバタバタしましたが、概要の提出、卒論の書き上げと提出、発表資料の作成と発表を一通り無事終えることができました。ただ残念ながら当時の論文の原本を自分用に持っておくのを忘れていたため、大学4年生レベルでどのくらいの論文を書けていたのか、もう確かめる術はありません。発表資料のデータも残っていないので、どんな発表だったかも今となってはわかりません。せめて論文と発表資料を印刷したものくらい、手元に残しておけばよかったです。ちなみに大学院の修士論文の原本だけは今でも手元に持っています。
そうして6年間かけて、なんとか無事に静岡大学を卒業できたのです。冒頭にも書きましたが、当時は大学院に進む学生が半分以上だったので、それほど環境が変わるわけではないのですが…。春休みというのも特になく、卒業してからも研究は続いて、2007年4月から大学院1年生としてS研究室で再スタートを切ったのでした。ここから大学院での2年間の研究生活が始まったのです。ここから先はまた2年分の内容になるので、またの機会にしたいと思います。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。塾長の私の人となりを知っていただけると幸いです。もし興味をもっていただけたら、ぜひ下記までお問い合わせください。
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