塾長のエピソード(中学3年生編)
こんにちは。岐阜県揖斐郡池田町の「のぞみ塾池田校」塾長の森です。
池田町・揖斐川町・神戸町を中心に、地域のお子さまに寄り添った個別指導塾を運営しています。今回は「塾長の経歴(中学3年生編)」について書いてみたいと思います。よろしければ「中学1年生編」「中学2年生編」も読んでみてください。
「中学1年生編」についてはこちら
「中学2年生編」についてはこちら
中学3年生になってまたクラスも変わり、3年5組で担任の先生も女性でベテランのS先生に変わりました。S先生とも関係が良好だったせいか、中2の頃同様にのびのびとやれていた気がします。
中学3年生時代の最大のトピックとしては、なんといっても前期に生徒会役員の書記として活動していたことです。何かしら行事があるたびに仕事?があり、毎日のように放課後は生徒会室に行っていました。そのころは元々入っていた柔道部の活動をすることもほとんどなく(一応最後の大会に出た記憶はあります)、その代わり合唱部に臨時で入っていて、市の合唱コンクールの男子の助っ人として活動していました(合唱部は通常女子しかおらず、混声合唱でコンクールに出るためには男子が必要だったため、音楽の成績が良い?合唱が上手?な男子が臨時で集められていました。当時のK先生には大変お世話になりました)。
ちなみにこのコンクールにもちょっとした小話があります。当時はベース(一番低い声のパート)で歌っていたのですが、コンクール本番直前になって、顧問で指揮者のK先生から
「森さん、譜めくり(ピアニストの横に座って楽譜をめくる役割の人)に回ってくれる?」
と告げられ、コンクールの課題曲と自由曲のうち、課題曲については歌えずに譜めくりを担当することになりました(自由曲は歌わせてもらえました)。当時の僕はベースとはいえ高音の伸びが悪く、声も硬めだったので、うまく周りに調和できていなかったのだと思います。
とはいえ、スポーツでいえばレギュラーだったのが大会直前にレギュラーを外されて控えに回されたわけで、指示には素直には従いましたが非常に悔しい思いをしたのを覚えています。卒業文集のネタにはこの悔しかった思いを書いたほどです。ちなみに譜めくりの練習はほとんどしていなかったため、ぶっつけ本番のような形になり、案の定本番でも譜めくりでミスりました。その時のピアニストのIさん、ごめんなさい(ちなみにこのIさんは生徒会役員の会計でもあり、一緒に仕事をしていました)。
前期生徒会としての最大のイベントはなんといっても「体育祭」でした。1学年300人弱いたので、それは大規模なものでした。詳細は覚えていませんが、4つ(赤・白・黄・青)の団がそれぞれ大きな絵を用意したり、応援合戦の練習をしたり、入退場の練習をしたり、各競技の練習をしたりで、生徒会役員でなくても忙しかった子がたくさんいたと思います。
実はこの体育祭でも1つエピソードがあって、それは体育祭の「シンボルマーク」でした。これは全校生徒に一人一案デザインしてもらい、それを集めて生徒会役員で協議して、その年の体育祭のシンボルマークを決める流れになっていました。当然、その中には生徒会役員のものも含まれます。そこでいくつかの有力な候補を集めて話し合っていたのですが、その結果選ばれたのが、なんと僕のデザインしたシンボルマークだったのです(嘘のような本当の話)。ただ、「生徒会役員が決めるシンボルマークが生徒会役員のデザインしたものになると内輪で決めたようになってしまう」と、当時の生徒会顧問のG先生の懸念があり、結局僕のデザインを学年でも絵がうまかった女の子にリデザインしてもらい、シンボルマークはその子が書いたものとして発表されたのでした。
その頃の学業面はというと、完全に波に乗って苦戦したようなことはありませんでした。生徒会の仕事が遅くなって夜の6時以降の帰宅になると、家には帰らず学校から塾に自転車で直行して塾の授業を受け、夜10時過ぎに自転車で帰宅するという日々が続いていたように思います。静里や綾里は田舎だったので夜は真っ暗で、塾から家までもそれなりに遠かったので、今思えば危なかったですね。
そんな前期生徒会役員時代でしたが、とある事件を引き起こしてしまったのです。それが
「生徒会役員が生徒会室のガラスを割る事件」
で、当然やらかしたのは僕でした。
当時、生徒会室に集まっていた時に、会計のK君とちょっとした口論になりました。それでちょっとイラついていた僕は、生徒会室の廊下側の棚に置いてあった段ボール箱を手で殴りました。その結果、段ボール箱は棚の反対側に押し出され、廊下と生徒会室の間にあったガラスの窓に激突してガラスが割れてしまったのです。廊下に出るとガラス片が散らばっていました。たまたま通りかかった先生から、「森君、どうすればいいかわかるよね?」と言われて、職員室に行って生徒会顧問のG先生に報告しました。その後、G先生や教頭先生も交えてお叱りを受けたのを覚えています。
その他にも、他の中学校の生徒会との研修会があり、一泊二日で行われていました。当然、各中学校の精鋭が集まったわけで、その多くと北高で再会しました。その研修会ではいろいろあったのですが、その中で車いすの身体障がい者の方から話を聞くというのがありました。今でいうと障がい者福祉の勉強といったところでしょうか。
それでその研修会のラストに、振り返りの作文を書くという課題がありました。当時の僕は車が大好きで、父が持っている車のカタログがあると隅から隅まで目を通していました。そのおかげで「車いすに乗ったまま乗れる車」の存在を中学生ながら知っていました。今では一般的になっていると思いますが、当時は電動で車いすを持ち上げて車に乗せるという福祉車両は珍しかったのです。
そういった前提があって、たまたま交流会で車いす生活の人の話を聞いたので、それとリンクさせて「将来は車いすの人でも使いやすい車を開発する仕事をしたい」みたいな内容の作文を書いた気がします。そしたらなぜか研修会に参加していた別の中学校の先生?から「最後に代表としてその作文を発表してください」と頼まれて、成り行きで参加者全員の前に立って作文を読み上げて発表した記憶があります。
作文と言えば、また何かの機会に中学校を代表して書く作文があり、なぜかその話も僕に回ってきて作文を書くことになりました。当時は国語が得意科目だったので作文を書くこと自体は苦ではなく、西部中学校を代表する行事や特徴について書いた記憶があります。最終的に教頭先生のチェックを受けましたが、ほぼ一発OKだったような気がします。
そんなこんなで、生徒会役員生活も前期を終えて御役御免となりました。後期も学級委員長に立候補しましたが、「いくらなんでもやりすぎだ」という声があって、その時は他の子に譲りました。今覚えば図々しいですよね。
ただこの生徒会役員時代は生活がハードで、体力が追い付かずに学校を休むこともそれなりにありました。いつも重要な委員会や行事があるとその準備に力を使い果たし、肝心の本番に学校を体調不良で休むことがたびたびあって、周りからは「いつも重要な本番に休んでいる」と言われる始末でした。
その後、後期になって学校生活ではほぼフリーの立場になったので、いよいよ受験勉強が本格化し始めました。塾では授業のほかにも自習室に毎日のように通い、休みの日も午前中から塾に行って勉強し、お昼ご飯は友だち同士で集まって近所の喫茶店や定食屋さんで済ませて午後も勉強、といった日々が続きました。今思えばハードですが、当時はそれが当たり前というか、少なくとも北高や東高を目指す子にとっては当たり前の日常でした。ただ周りはみんなライバルなので、お互いに切磋琢磨できたのだと思います。
このように勉強漬けだったこともあり、テストの点や内申点も高い水準をキープできました。副教科の音楽や技術が得意だったことに加え、本来運動音痴で大した成績の取れない体育でも、努力が認められて5を取れたのです。けっして得意とは言えなかった英語でも、なんと定期テストで100点を取ることができました。ただ、テストが返却された後のテスト直しで採点ミスがあって、本来間違っているところに〇がつけてあるのに気づいたのです。本当は98点でした。普通はそのまま見なかったふりをするのかもしれませんが、バカ正直だった当時の僕は英語担当のO先生のところに行って、
「ここ、間違っているのに〇がついています」
と申告しました。ただO先生は「いいからいいから」と言って見逃してくれたのを覚えています。
志門塾関連でいえば「岐阜模試」がいよいよ立ち上げられた年でした。当時受験生が集められた大学かどこかの会場で「いよいよ岐阜模試を立ち上げました」と成瀬総塾長が熱く語っていたのを覚えています。その頃は受験生向けの模試と言えば「岐阜新聞模試」しかなく、実際僕もその年の第1回の岐阜新聞模試を受けたことがあります。あまりできなかった記憶はあります。
岐阜模試の導入で、各所の志門塾に通う受験生同士の争いが一層激しくなりました。それこそ市内の学力上位者の名前が順位表に並び、その中ではさすがに上位に入るのは難しかったです。静里校の中でもバチバチでやりあっていました。ただ、岐阜模試のおかげで試験慣れできたのは大きかったです。模試当日のルーティンも確立し、朝にはユンケルを飲み、昼はコンビニのおにぎり2個とデカビタCで済ますのが定番になりました。夏期講習、冬期講習もあったのでしょうが、正月特訓として駅前の校舎に集結し、正月の三が日も朝から晩まで勉強していた覚えがあります。塾の先生方もそれは大変だったでしょう。
そこまでやったかいがあったのか、中3後期の内申点は過去最高の42をマークしました。ちょうど当日点だけでなく、内申点も合否に影響するようになった時期でもあるので良かったのだと思います。当時は「内申点さえよければ北高でも〇割は受かる」などと言われていました。ただ、西部中にはオール5の45を取った猛者の女の子もいました。勉学は非の打ちどころがなく、しかも運動をさせればバドミントンで市?県?代表、ピアノを弾かせれば学年合唱の伴奏係、という子で、当然北高で同級生になりました。
そんな感じで中3の一年も終わりつつあり、いよいよ高校入試を迎えることになります。入試当日についてはまたいろいろとあったので、「高校入試当日編」をまた短くまとめたいと思います。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。塾長の私の人となりを知っていただけると幸いです。もし興味をもっていただけたら、ぜひ下記までお問い合わせください。
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