塾長のエピソード(大学院生後編)
こんにちは。岐阜県揖斐郡池田町の「のぞみ塾池田校」塾長の森です。
池田町・揖斐川町・神戸町を中心に、地域のお子さまに寄り添った個別指導塾を運営しています。今回は「塾長の経歴(大学院生後編)」について書いてみたいと思います。よろしければ「幼少期・小学生編」「中学1年生編」「中学2年生編」「中学3年生編」「高校入試当日編」「高校1年生編」「高校2年生編」「高校3年生編」「センター試験当日編」「大学受験私立・国立2次試験編」「大学生活学業編」「大学生活サークル活動暗黒編」「大学生活サークル活動充実編」「大学生活アルバイト編」「大学院生前編」も読んでみてください。
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これまでに書いてきた流れで、2007年4月から「静岡大学大学院工学研究科機械工学専攻(当時)」に進学し、大学院生としての生活がスタートしました。とはいえ、それまで1年半を過ごした研究室が変わったわけでもなく、周りの子も同じように進学した子が多かったので環境が大きく変わったわけでもなく、研究テーマも引き続き同じテーマで進めていました。大学院に入ってからの授業は始まりましたが、学部生時代と違って多くの同期や先輩に囲まれていたので、学業であまり苦労することはありませんでした。
ちなみにこの頃のアルバイトは週4日程度、平日は「がんばる学園(当時)」という個別指導塾で、土日は「車検のコバック浜松高丘店(当時)」で働いていました。平日は研究室と夕方にバイト、土日は朝から夜までバイトで休みがなかったのですが、研究室は皆勤でなくてもよかった(研究さえ進めていれば、基本的に自由に休めた)ので、毎週火曜日とか水曜日あたりを休みにしていた気がします。土日は自動車整備工場で肉体労働をし、火曜日に個別指導塾で勉強を教え、その帰りに「天下一品」でラーメンを食べたり「松屋」でカレーを食べたりし、さらにその流れでスーパー銭湯「極楽湯」に行って疲れを癒し、翌日の水曜日は適当に休み…といった感じでしたね。ただ研究室の進捗報告会や実験や学会の発表前は忙しかったので、平日は朝から夕方まで研究室、一旦抜けて塾でバイト、その帰りに車でそのまま大学に寄って研究室で研究や資料作りを再開して深夜まで…というのも結構ありました。
S研究室は朝が遅くてもよかったので、朝9時過ぎに研究室に行っても一番乗りといった感じで、だいたい誰よりも早く研究室に着き、夜は11時~1時くらいまで残っていたので誰よりも遅く帰る、といった感じ、今考えれば先輩の2年生と時間的には変わらないレベルで研究に打ち込んでいました。まあ、教授が同じ部屋にいるわけではない(普段は教授室にいる)ので、仕事でいえば上司が周りにいないという環境だったので、それなりに気軽に、今思えば和気あいあいとやっていました。
ところが、大学院に進んでからそう経たないうち(5月くらい)に、兵庫県にある「SPring-8(スプリング8)」という大型放射光施設(放射光というのはレントゲンに使うX線のような放射線のようなものです)での学外実験、あと7月に「日本材料学会」のシンポジウム(第42回X線材料強度に関するシンポジウム)で学会発表することが決まりました(というか教授に知らない間に決められていました)。
4年生までは、研究テーマのうち、3DCAD・CAEによるコンピュータシミュレーションと走査型電子顕微鏡(SEM)による観察・計測の内容のみを扱ってきましたが、大学院に入って先輩から一部研究内容を引き継ぎ、「放射光X線」を用いた応力測定についての研究も扱うようになりました。研究対象は同じですが、コンピュータシミュレーションとは別角度で、強力なX線を用いた実験評価の内容が追加されたのです。ちなみにこの先輩はあまりまじめに研究していなかったので、当初は苦労したところもありましたし、「自分が最初からやっていれば…」という思いは今でもあります。
そういう経緯で放射光X線を用いた実験分野を引き継いだので、「第42回X線材料強度に関するシンポジウム」で発表することになったのです。5月にSPring-8で実験を行い、その成果をまとめて7月に学会発表するような流れでした。
SPring-8は兵庫県の「播磨科学公園都市」にある世界最高性能の放射光(強力な放射線)を生み出すことができる大型放射光施設ですが、規模が大きいのと人体に有害な強力なX線を用いる施設だったので、かなり田舎の山奥にありました。利用するには多大なお金が必要ですが、日本だけでなく海外からも大学や研究機関が実験のためにやってくるような施設です。そのため、利用申請をしても使える時期や時間は限られていました。X線を用いた実験設備は大学の研究室にもいくつかありましたが、僕の研究の場合、数ミクロン単位での測定が必要だったので、大学に置ける実験設備レベルのX線では対応できず、SPring-8の強力な放射光X線を使って実験するしかなかったのです。しかも実験期間は一週間弱しかなく、24時間体制の実験でしたが、限られた時間内で成果を出すためには入念な準備が必要でした。
SPring-8での実験は24時間体制で昼勤と夜勤に別れて行うため、教授と僕以外にも研究室の先輩や後輩が応援に来てくれていました。ただ、あくまで僕の研究テーマだったので、実験期間中は栄養ドリンクを飲みながら睡眠時間4時間程度で頑張っていたような気がします。施設では専門のスタッフさん(超頭のいいエリートの職員さん)が手伝ってくれるのですが、なにぶん初めての実験で訳も分からなかったのと、数ミクロン単位での実験にはかなりの精度が要求されるので、肝心な実験を始めるまでの準備がとても大変でした。
そんな感じで数日の実験を乗り切り、初めてのSPring-8での実験ではそれなりに妥当性のある結果を得られることができたのです。引き継いだ先輩のデータともそれなりに整合性が取れていました。この実験結果を基に、7月の学会発表に向けて成果をまとめていきました。
「X線材料強度に関するシンポジウム」では、事前にA4用紙6枚分程度の小論文を提出する必要がありました。6月あたりに教授が確かドイツに出張に行っていたため、その期間に小論文の初稿を作成して、教授が帰ってきてから提出したのですが、その時はめちゃくちゃ怒られてダメ出しされました。ほぼ最初から作り直しになりましたが、どうにか期限には間に合わせて提出しました。
小論文を提出してからは、学会当日の発表資料の作成になります。だいたい15分~20分程度の発表です。それまで約1年半、4年生として研究室に在籍し続け、研究の進捗発表もしていたので、その頃には独学ですがPowerPointを使ってそれなりのスライド資料を作れるようになっていました。僕の資料は文字を少なくする代わりに大きくして読みやすく、図やイラストやグラフも大きく、またわかりやすいようにアニメーションも使用しているのが特徴でした。ただ発表原稿を暗記する自信がなかったので、資料を見ながらその場で説明できる程度の文章要素は残していました。
そうして2007年7月に京都で行われた「第42回X線材料強度に関するシンポジウム」での学会発表に臨んだのです。学会発表とはいっても集まるのはせいぜい数十人、会議室を使ってのものです。いろんな大学の教授や学生、企業の技術者が集まっていました。ちなみに一番偏差値が高そうな大学が名古屋大学、次が金沢大学くらい、というレベル感です。当時の静岡大学は隅っこの少数勢力でした。
で、肝心の発表はというと、ほぼアドリブで乗り切りました。原稿を暗記しない派の僕は発表原稿を作らず、あくまでスライドを見せて進めながらその場で説明するスタイルだったので、当時何をしゃべったかは記録にも記憶にもありません。ただ聞き取りやすいようにゆっくりめにしゃべっていたので、最後は少し時間が足りなくなりました。発表をしたのは僕だけではなく、同期のK君もいたのですが、K君も無難に発表をこなしていました。
無事に学会発表を終え一息ついたのですが、しばらくして、ある日教授に呼び出されました。その内容は、その学会発表で「最優秀発表賞」を取ったことでした。そんな賞があることさえ知らなかったのですが、学会発表のデビュー戦でうっかり最優秀発表賞を取ってしまったのです。静岡大学の学生では初、研究室でも過去に教授自身が取って以来のものでした。表彰のためだけに後日、京都かどこかであった発表会に出向いて表彰状と盾を受け取り、大学のHPに載ったり工学部内の学内通信にも写真入りでコメントを出したりしました。小さくてマニアックなシンポジウム内とはいえ、賞を取れたことは素直に嬉しかったですし、自信もつきました。賞状や盾は今でも大切に保管してあります。
ちょっと本題からは逸れますが、新卒で入った会社でも開発部に配属されて製品の研究開発に取り組んでおり、その中でもコンピュータシミュレーション(有限要素法解析を用いた熱流体解析)を3年目から4年目にかけての時期に担当していました。希望したわけでもなく、学生時代の経験が評価されたわけではありませんが、偶然そのテーマを担当することになったのです。しかもそれは社内で一人だけ、そのシミュレーションのためのソフトウェア(アメリカ製で英語版)を使えるのも僕だけでした。(株)JSOL(旧日本総研ソリューションズ)のエンジニアさんと協力して研究を進めていましたが、面白い話としては、途中から担当エンジニアが「トルコ人」のサーリムさんという人に変わったのです。サーリムさんは大阪のオフィスにいたので、電話やメールでやり取りをしながら研究を進めていました。日本語も英語もペラペラなサーリムさんでしたが、それでも外国人は外国人、日本語の不自然さは多少ありました。専門性の高い内容を電話やメールのみでコミュニケーションをとるのは大変でしたが(当時はZOOMとか無かったので)、研究成果としてはそれなりのものが出つつありました(それでも僕自身の満足度は50%くらいでしたが)。
で、その研究成果を「ソフトウェアの活用事例」として、そのソフトウェアの会社(アメリカの会社)が主催するカンファレンスで発表したい、という話が持ち上がりました。シミュレーションだけでなく実験も絡めた研究だったので、最初はJSOL側に解析データや実験データを渡して発表してもらう話でした。所詮、田舎のメーカーの若手社員の研究成果です。しれたものでした。が、いつのまにか「森さんに発表してもらいたい」という話になり、結果的に2012年に東京で行われたテクノロジーカンファレンスで30分間時間をいただき、「講演」という形で会社を代表して研究成果を発表したのでした。この時に、学生時代に鍛えたプレゼン力と最優秀発表賞をゲットした経験が初めて生かされました。ちなみに「講演」だったので数万円は講演料を貰えたはずなんですが、確か会社に没収されたような気がします。
だいぶ話が逸れましたが、大学院生生活の序盤でSPring-8での実験と学会発表も経験し、そのまま相変わらず研究を進めていました。大学院生になると、たいてい後輩がついて(4年生があてがわれる)、自分の研究を手伝ってもらったり、その子の卒業研究の面倒をみたりすることになります。僕の場合、ついてくれたのはF君でしたが、しっかり手伝ってもらいましたし、こちらもサポートしました(ちなみにF君は某自動車メーカーの内定をゲットしていました)。
そうして研究生活を進めていましたが、前述したように僕の研究の実験はSPring-8レベルの大規模施設でしか行うことができません。過去も含めて、限られた回数の実験の結果だけでは到底データが足りませんでした(個人的に、という意味です)。その頃になると、研究の中でも自分なりの新しい仮説を立てるレベルまできていたのですが、コンピュータシミュレーションでの解析結果とSPring-8での実験結果には乖離がありました。シミュレーションは時間さえあれば研究室で何度でも行えますが、SPring-8での実験は行えません。もし僕の研究テーマの実験が研究室レベルの実験装置で可能だったなら、徹夜してでも納得がいくまで実験し続けていたと思います。というか、今でも「研究室レベルで実験できていたらなぁ」と未練があるくらいです。「この研究に0から(最初から)取り組めていたらなぁ」という未練もいまだにあります(実験データの半分以上は先輩から引き継いだものだったので)。
そんな思いもありつつ、研究室生活(と相変わらずのバイト生活)は続き、1年生から2年生になる前には中間論文、中間発表もあり、2008年の4月から大学院2年生になりました。研究室には博士課程(ドクター)はいなかったので院の2年生がトップ、その中でも僕だけ半年先輩だったので、実質最上級生になって研究室を仕切っていました。その間に研究室の人数が増えて部屋も変わって広くなっていきました。
大学院1年生の終わりから大学院2年生の初めにかけては、いわゆる「就職活動」がありました。ここについては詳しく書きませんが、現在「失われた30年」と言われ、僕も一応「氷河期世代」に入るのですが、2008年当時はいわゆるリーマンショック前でアメリカの景気が良く、日本も支持率の高い小泉首相の時代で景気が上向いていた時期だったので、完全に「売り手市場」でした。静岡大学のような地方国立大学でも、誰もが知るような大企業がたくさん企業説明会に来ており、多くの学生が殺到していました。当時の就職環境は良かったのです。
ただ、就職活動があるからといって教授は研究には猶予をくれなかったので、いろいろあって就職活動はあまりできず、結局適当に入れそうな会社だった「株式会社ニッセイ」から学校推薦で内定をもらってそこに決めました。当時の僕にはたくさんの会社を受ける暇はありませんでした。ちなみにニッセイは当時東証二部上場(今は上場廃止)で、有名な大企業である「ブラザー工業」の子会社でしたが、東証二部上場企業から内定をもらったのは周りでは僕だけで、他の同期達は全員、東証一部上場の大企業から内定をもらっていました。
就職活動に影響を与えたのは、やはりSPring-8での実験と学会発表でした。大学院1年生の時と同じく、5月くらいにSPring-8での実験があり、7月に学会発表がありました。結論からいうと、その時の実験では想定したような結果が得られませんでした。今から思えば「ああしておけば」という点がいくつかあり、後悔もしているのですが、前述した仮説を立証できるような結果ではありませんでした。ですが学会発表は決まってしまっていました。SPring-8での実験(X線を使った実験)でたいした結果が得られなかったのに、X線に関するシンポジウムで発表しなくてはいけないのは、僕にとってはかなりのストレスでした。コンピュータシミュレーションではそれなりの成果が出ていましたが、それだけでは発表にならないからです。
結局、発表自体の内容としては最優秀発表賞をもらった昨年のものと大差なく、評価として悪くはなかったらしいですが、自分としては不本意な発表で終わった気がします。SPring-8での実験と学会発表との引き換えに犠牲になった就職活動とは見合わない結果でした。
その後は修士論文の作成に本格的に取り組んでいくことになります。それまで何本か小論文を書いていたので文章そのもののストックはそれなりにあったのですが、写真や図、表などを準備しなくてはいけません。当時、Adobeのillustratorが使える環境でしたが僕には使いこなせず、PowerPointの図形オブジェクトでやりくりしていました。前述したように自分なりの仮説はあったのですが、それを立証できなかったため、論文の結論としては無難なものになりました。本当はコンピュータシミュレーションの結果と実験の結果との整合性が取りたかったですし、多くの実験さえできればその可能性はありましたが、研究室ベースの設備では実験できなかったのが今でも悔やまれます。もしラボベースの設備で実験できたなら、死に物狂いで実験して、もっと納得のいく論文が書けたと思います。あとはやっぱり引継ぎですね。この研究の最初から、つまり0から担当していれば、もう少し納得できる結果になったように思います。
大学院2年生の冬頃にはアルバイトも辞めて修士論文作成に集中し、朝から深夜まで研究室にこもる生活が続きました。ただ周りの同期や後輩たちも頑張っていたので、僕自身も頑張れました。深夜には誰も残っておらずいつも一人だったので、パソコンにスピーカーを付けて当時流行っていた「マクロスF」の曲のメドレー(ニコニコ動画)をひたすら流しながらパソコンと向き合う生活が続きました。クリスマスイブの夜も、深夜まで研究室に残っていたのは僕だけでした。
そんなこんなで年が明け、論文の概要(修士論文をA4用紙2枚に要約したもの)、論文そのもの、発表資料(プレゼン資料)を作成していって、最終的に2月くらいに提出・発表がありました。発表といっても他の研究室の教授が査読のために何人か聞きに来るくらいで、ほとんど内輪のものです。特に何事もなく、無難に終えました。
最終的に一応卒業式にも参加し、大学生6年間、大学院生2年間の計8年間の学生生活が無事に終わったのです。気がつけば26歳?27歳?になっていました。会社に入ったら完全にオールドルーキーです(実際その通りでしたが)。今2025年なので、20年近く前になります。そのくらいの昔話です。
このあたりで僕の経歴・エピソードは終わりにしたいと思います。
なぜこのようなものを書き始めたかというと、2025年の7月にGoogleでのホームページの表示回数が激減したからです。3月に新しいホームページを開設してからは順調に表示回数が伸びていましたが、7月に入って急に元に戻ってしまったのです。Googleの仕様変更が原因でした。ホームページの業者からは「ブログの更新を頻繁にしてください」、チャットGPTからは「講師の実績や信頼性を高める記事を書きなさい」とアドバイスが出ていたのが、このような記事を書き始めたきっかけです。最初はホームページのGoogleでの表示回数を上げるために「塾長の実績や信頼性」をアピールすべく、学生時代の塾講師の話から始めようと思っていましたが、そのためには大学生生活を振り返る必要があり、そのためには高校生活を振り返る必要があり~という順番で、結局「幼少期」から「20代中盤」までの人生をまるまる振り返るシリーズになってしまいました。僕のこれまでの人生の約半分を書いたことになります。
このエピソードを書いて投稿し始めたり、他にもコラムを投稿してサイトの更新頻度を高めていったり、それをGoogleビジネスプロフィールに投稿し続けた結果、現在はGoogleでの表示回数も徐々に回復傾向にあります。
ただいずれにしても、僕の経歴やエピソードはこれで完結です。どこのどなたが読んでくださるのかわかりませんが、検索順位を高めるべく、また自分の人生を振り返るべく、それなりに頑張って書きました。もしここまで全部読んでくださった方がいれば、大変うれしい限りです。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。塾長の私の人となりを知っていただけると幸いです。もし興味をもっていただけたら、ぜひ下記までお問い合わせください。
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