塾長のエピソード(大学生活サークル活動暗黒編)
こんにちは。岐阜県揖斐郡池田町の「のぞみ塾池田校」塾長の森です。
池田町・揖斐川町・神戸町を中心に、地域のお子さまに寄り添った個別指導塾を運営しています。今回は「塾長の経歴(大学生活サークル活動暗黒編)」について書いてみたいと思います。よろしければ「幼少期・小学生編」「中学1年生編」「中学2年生編」「中学3年生編」「高校入試当日編」「高校1年生編」「高校2年生編」「高校3年生編」「センター試験当日編」「大学受験私立・国立2次試験編」「大学生活学業編」も読んでみてください。
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静岡大学に入学して、学業面ではしばらく苦労していたものの、もともと車が好きで工学部に入ったようなもので、某人気漫画の影響もあり、入学前から「自動車部」に入ろうと思っていました。実際、静岡大学の工学部がある浜松キャンパスには自動車部があり、当時部員も10名以上いた気がします。「自動車部」なので基本的に皆さん車を持っていましたが、「国立大学の工学部の学生は勉強や研究で忙しい=バイトで稼ぐにもそこまで時間をかけて稼げない」ので、中古の小型車(ホンダのシティとかCR-Xとか)を改造して、サーキットで走れる(というかジムカーナに出られる)ようにして乗っていました。ちなみに僕が自分の車(中古の小型車)を買ったのは1年生の時の12月~2月くらい?だったので、しばらくは自分の車は無い状態で在籍していました。
とはいえ、自動車部に多くの思い出はありません。徹夜で富士スピードウェイに行ってジムカーナに参加させてもらったり(先輩の隣に乗せてもらった)、浜松の山奥でラリーをやったりしたくらいです。確か週1(土曜日)くらいしか参加していなかったのでそんなものでした。ちなみに硬派な部活だったので、当然女の子はいません。女の子が多いのはテニサーやバトミントン部、合気道部などでした。ちなみにここにも留年している先輩がたくさんいました。今から思えば就職氷河期真っただ中だったので、いろいろ苦労していたと思います。
というわけで、自動車部編はここで終わりです。実質ほぼ1年間しか在籍していませんでした。ちなみにその数年後、自動車部は解体?され「学生フォーミュラ」のチームとして生まれ変わりました。浜松市近辺はスズキやヤマハの本拠地なので環境に恵まれており、静大のチームでも全国レベルで活躍しているようです。あと数年、僕の入学が遅ければ(僕が若ければ)、間違いなく学生フォーミュラをやっていたと思います。そうすれば、それなりの企業からオファーももらえたと思えますし、全く違った人生になっていたでしょう。
ちなみに自分の車は地元で小型の中古車を買いました。当初は20~30万円程度のホンダのシビック(EG型)を探していましたが、たまたまダイハツの「シャレード デトマソ」の改造車(ラリーレプリカ仕様)を見つけて、当時40万円くらいで買いました。色は真っ赤なレッド&イエロー、ラリーレプリカ仕様だったのでデカール貼りまくり、ラリー仕様の白いOZのホイールで「超・目立つ改造車(当然5速マニュアル)」でした。当時の写真がもう残っていなくて残念です。とにかく目立つ車でした。その車に「初心者マーク」を貼っていたので、余計ですね。
そのシャレードはさておき、なぜ自動車部を1年で辞めたかというと、実は入学当初、というか最初の1年間はサークルを2つ掛け持ちしていたからです。もう一つのサークルは「静岡大学混声合唱団」でした(いわゆる静大混声というやつです)。
中学生編、高校生編でもチラッと書きましたが、毎年夏に開催される「合唱コンクール」の男子の助っ人として、合唱部や音楽部に呼ばれて活動していました。ですので、カラオケは下手ですが、合唱はまあまあ上手い方?です。ちなみにパートはベースのうちの上の方、バリトンです。ただ、入学前は静大混声のことなど全く知らず、まさか大学に入ってまで合唱を続けるとは思ってもいませんでした。
静大混声に興味を持ったきっかけは入学式です。入学式は確か静岡市のホールで行われましたが、その催し物の中に、合唱団による「学生歌」の演奏がありました。確か「我ら若人(わこうど)」という題名です。その演奏前の合唱団の紹介で、
「昨年の全日本合唱コンクール(大学の部)全国大会で1位、金賞ゴールドを獲得しました」
とアナウンスされたのです。全日本合唱コンクールの全国大会で1位という意味であり、いきなり聞いたのでびっくりしました。ちなみに当時の静大混声は、故・辻正行先生が正指揮者を務める、まさに全国レベルの強豪合唱団でした。
で、びっくりしたまま学生歌の演奏(あと1曲くらいあったかもしれません)を一通り聴いたのですが、ちょっと違和感がありました。それは正直に言うと、
「あれ、別にそう上手くないじゃん?」
という感想だったのです。「全国1位でこれ?」といった感じで拍子抜けしたのですが、同時に「このレベルなら僕でも通用するかも…」という感じで興味が湧いてきました。ある意味、僕の大学生活のすべての運命を決めたのが、この入学式の演奏でした。
ただ、これは仕方ないことなのです。入学式は4月なのでベテランの4年生の多くが卒団した直後になります。当然その分人数は減りますし、演奏レベルも下がります。またコンクールは夏~秋にかけて、定期演奏会は冬の12月なので、合唱団としてはそこにピークを持っていきます。ゆえに4月は新体制が発足したばかり、新曲を練習し始めたかどうかくらいの時期なので、一番未熟な時期なのです。演奏レベルが低いのは当然と言えば当然でした。
それで「自分でも通用するかも…」と勘違いをしてしまったのでした。
それで、浜松キャンパスの静大混声の練習室に行ってみたわけですが、そこでも自動車部と大して変わらず、団員数はわずか10名程度でした。同級生は僕を加えても4名、2年生は2名ほど、3年生以上やOBが留年生を含めて数名、そのすべてが男子で、女子は同級生に一人いるだけでした。本来は「混声合唱団」であるのに、ほとんど「男声合唱団」の状態でした。静岡キャンパスの団員と浜松キャンパスの団員を合わせて「静大混声」だったのです。静岡キャンパスは文系が主なので当然女子が多く、向こうの男女比は半々くらいでした。
このように浜松キャンパス組は人数が少ないので、当然熱心に勧誘され、流されるままに入団していました。まあ、硬派でストイックな自動車部に比べると温和な雰囲気で、全国大会に出られるチャンスもあったからです。
ただ、いざ練習となると、はっきり言って合唱の練習はできませんでした。なぜなら女声がいないからです。練習は基本音取りと、せいぜいテノールとベースが合わせてみる、くらいのものでした。静岡キャンパスに行かなければ、女声と合わせて練習することはできなかったのです。
静岡キャンパスと浜松キャンパスはだいたい80㎞ほど離れており、車で行くか、電車で行くかのどちらかでした。新幹線がありますが、さすがに高くて乗れません。あと、混声合唱団はそれなりにお金がかかるサークルだったので、車を持っている団員はいませんでした。しかも電車は各駅停車の鈍行しかなく、片道1時間半~2時間はかかっていたのです。車も高速道路を使えば楽ですが、高速代がかかります。当時は下道のバイパスも有料だったので、それを使うのが精一杯でした。このように、毎週静岡キャンパスに練習に行くのは、往復の交通費がかかることもあり、現実的ではありませんでした。
ただ、月に1回程度、「辻練」と呼ばれる辻先生の練習があったので、基本的にはその練習に参加するために、月1回は静岡キャンパスに行って特別練習をしていました。当時の静岡キャンパスの団員との交流は、そのくらい限られていました。
まあ、ただ合唱自体は好きだったのと、当時は全国レベルの強豪で全国大会に行ける可能性が高かったので、環境がいいとは言えませんでしたが、静大混声を続けていました。この時点では自動車部と静大混声の両方を兼部していて、平日は静大混声の練習に、土曜日は自動車部に顔を出す、みたいなサークルライフを送っていました。混声の練習は週に3~4回あったので、どちらかというと混声の方がメインでした。
1年生の時はそんな感じで、夏合宿、コンクール(順位は忘れましたが確か銀賞シルバー)、冬合宿、定期演奏会等と一通りの行事に参加して終わりました。大学祭では演奏を披露したり、屋台を出して食べ物を売ったりもしていました。その年の年末には東京まで行って、いろんな人たちと一緒にベートーベンの「第九」やモーツァルトの「レクイエム」の演奏にも参加させてもらいました。
静岡キャンパスに練習に行くのはお金もかかるので当然アルバイトをして必要なお金を稼ぎ、また体力も必要だったので、混声の活動で学業面では様々な負の影響を受けていました。
だいぶ昔のことなので覚えていないことが多いのですが、1年目はそんな感じで終わりました。2年目に入ると同級生の男の子2人は辞めてしまい、同級生は僕ともう1人の女の子だけになりました。あとはほぼ男の先輩ばかりでした。
2年生の春になると、当然各サークルで「新入生の勧誘合戦」が始まります。看板を立てたり、掲示版にポスターを貼ったり、新入生に直接声を掛けたりですね。こっちは人数が少ないので、それらの活動にもなかなか苦労しました。結局人数は集まらず、確か新入団員は男の子1人だけでした。ですので1年目とほとんど環境は変わりませんでした。変わったことと言えば、1年生の冬に車を買ったので、またお金が必要になったこと、自動車部を辞めて混声に集中するようになったことくらいです。
2年生の序盤は、車を買った影響でアルバイトでお金を稼ぐこと、また交通費などの出費を節約するために、混声の活動は浜松キャンパスでするだけで、静岡キャンパスにはしばらく足を運んでいませんでした。本格的に復帰したのは確か夏合宿くらいから、そこから猛練習をしてコンクールや定期演奏会に間に合わせた気がします。
そして3年生になると、一応浜松キャンパスの代表である「浜松代表」という立場になりました。静岡キャンパスには「団長」や「会計」などいろいろなポストがあるのですが、そのうちの1人です。サークル運営のためのメインの役職は、全員3年生がやっていました。でも浜松は相変わらず少数勢力で、人数は減り続けていました。この年が一番つらくて、いろいろあったのですが、団内でいろいろともめ事があったり、辻先生がお亡くなりになったりと、波乱の一年でした。全国大会には出場できたものの、最下位の10位で銅賞、定期演奏会等、一通りの行事をこなせてはいましたが、不安定な一年でした。当時の3年生が浜松キャンパスには2人しかいないうえ、静岡キャンパスの人数も10名程度と少なかったのも影響していました。
ここにきて、3年生の「浜松代表」として、本気で「静大混声の浜松を閉める」ことを考え始めていました。いろいろと限界が来ていたのです。そんな状態では新入生も入りません。ただ、僕個人にそういう考えがあっても、当時の顧問のI先生の意向や先輩やOBのことを考えると、とても実現不可能でした。本来は楽しいはずのサークル活動で、むしろすごくストレスが溜まっていたのです。でも、自分が辞めるとそれこそどうにもならなくなるので、自分が辞める、という選択肢も、ある種の責任感があってとれないでいました。こうしたサークル活動でのストレスは、学業面にも大きな負の影響を与えていました。
こうして3年間、なんだかんだで静大混声を続けてきたわけですが、3年生も終わり、4年生になって「浜松代表」でもなくなり、先輩は卒業していき(それでも多留生や院生が多かったですが)、いろいろとあきらめて春が始まりました。その4年目で奇跡が起こるとは、当時は思いもしなかったのです。
と、ここまでが長く苦しいサークル活動の「暗黒編」です。次の1年はそれとは打って変わって「光の1年」になったのですが、それはまた次の機会に書きたいと思います。
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