塾長のエピソード(幼少期・小学生編)

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塾長のエピソード(幼少期・小学生編)

こんにちは。岐阜県揖斐郡池田町の「のぞみ塾池田校」 塾長の森 です。
池田町・揖斐川町・神戸町を中心に、地域のお子さまに寄り添った個別指導塾を運営しています。


今回は「塾長の経歴(幼少期・小学生編)」について書いてみたいと思います。


今は池田町で塾を開いていますが、私の出身地は大垣市です。生まれは大垣市ですが、ほどなくして父の転勤のため、当時の板取村(現在の関市)で幼少期を過ごしました。父は学校の先生だったのですが、板取村には住める場所がなく、我が家は校長先生の家の一部を借りて暮らしていたそうです。


当時の板取村は川が綺麗で、夏はよく板取川で遊んだり泳いだりしていました。今思うとちょっと危ないですよね。冬は雪がものすごく積もって、停めてあったトラックが大量の雪に埋もれていたのを覚えています。雪だるまをよく作って遊んでいました。若い人にはわからないと思いますが、みんな車のタイヤをいわゆる「スパイクタイヤ」に変えて走っていましたね。


その校長先生の家の近くには保育園がなかったため、家から少し離れた「めばえ保育園」というところに通っていました。ただ、両親が送迎できないため、保育園児なのに普通の「路線バス」に「定期を使って」乗って通園してました。バスで定期を使ったのは先にも後にもそれっきりです。

板取村生活を終えると、大垣市の父の実家に戻ってきました。ただ、当時住んでいたのは現在の住所とは違っていて、大垣市の西の端にある「綾野町」というところで(ただの「綾野」とは別の地域です)、綾里保育園や綾里幼稚園、そして綾里小学校に通っていました。


さすがに保育園時代のことはよく覚えていませんが、綾里地域は小さな地域で周りの人数も少なかったため、みんなと仲良くやっていた覚えがあります。一時期はコマ(回すやつ)にハマっていました(色を塗ると回したときにいろんな色や模様が見えて楽しかったからです)。


ある日、保育士さんから「明日、お月様に連れてってあげる」と言われてテンションが上がり、次の日に園庭で宇宙に行くための儀式?踊り?をしていて、「本当にお月様に行けるなら保育園の外でロケットに乗らないと!」と勘違いして、踊りながら保育園の外まで飛び出していってしまい、保育士さんをパニックにしたのはよく覚えています。結局お月様に行ける話は、保育園の運動室の中で保育士さんがイベントをやってくれる、というのが真相みたいですが、当時の私は心底がっかりしたのは覚えています。


幼稚園時代もいろいろありましたが、いろんな工作に夢中になっていたのはよく覚えています。今考えると危ないですが、当時は鉄のトンカチと釘と木片を使って、釘打ちを楽しんでいました。ただ釘を打つのではなく、いわゆる「ビー玉」が転がせる間隔をあけながら釘を打っていって、完成したら、ビー玉を釘で作った道を転がす遊びをしていたのを覚えています。それ以外に目立ったことは覚えていませんが、幼稚園の先生にはよくしてもらっていました。


その後、無事に小学生になりますが、小さな小学校だったため、当時でもクラスが2つしかありませんでした。小学生になると習い事が増えてきて、もともと当時の「ピープル」というところでスイミングを習っていたんですが、それに加えて近所でピアノ、習字、綾里小の野球少年団と、だんだん増えていき、平日はピアノ、習字、スイミング、土日は野球少年団と、それなりに忙しい小学生ライフを送っていました。ただいずれもガチ勢ではなかったので、当時ガリガリで体力のなかった私でもなんとかなってました。


唯一、小4の夏休みの時に担任の先生が大量の宿題を出したのと、市の水泳大会の代表に選ばれて毎日学校で水泳の特訓が重なり、また毎日野球の朝練があって朝早く、他の習い事もあって、宿題のほかにもポスターや読書感想文の課題があったときに、とうとう限界を迎えて親に泣きつき、臨時の家庭訪問をしてもらった覚えはあります(その結果どうなったかまでは覚えてませんが、たぶん宿題の一部を免除されたんだと思います)。


忙しい小学生生活の中でも、なぜか謎のリーダーシップがあったせいで、毎年学級委員長を務めていました。小さな小学校でしたが、小6の時には学年代表もやりました。常になんらかしらの「仕事」のようなものを抱えていたような気がします。


ちなみに両親が学校の先生だったこともあり、自分の通う小学校の先生が自分の親の知り合いや元同僚であることも珍しくなく(あるいは他の先生のお子さんが自分の親の教え子だったりもあります)、「森先生のところの息子さんか~」と言われることがよくあり、可愛がってもらえました。ただ、これがきっかけで「親の知り合いの人がいる前で恥ずかしいことはできない」という、「学校では常にまじめで勤勉でなくてはならない」という価値観が生まれたのも事実で、結局「基本的にはまじめ」という気質が今でも残っています(当時に比べるとだいぶ丸くなりましたが)。


遊びの面ではそれなりに遊んでいて、ただ両親が夜まで帰ってこないので、毎日誰かしらの家に遊びに行っていました。学校に行けばサッカー(当時Jリーグが始まってサッカーブームだったので)、友達の家では基本的にスーパーファミコンでRPGやアクションゲームをやる、といった感じですね。うちは「ゲーム禁止」家庭だったので(目が悪くなると言われていたから)、友達の家でゲームをやるのは貴重な時間でした。あとエアガンが流行っていて(今考えると危ないですが)、家に大きな庭(山というか森というか)がある友達の家でサバゲーごっこもしていました。


ただ、その遊びにもルールがあって、「宿題のカドとケドを全部終わらせてから遊ぶ」というものでした。これはマイルールではなくて、いつも遊ぶ友達たちも一緒で、最初に誰かの家に集まったらみんなで最初は宿題をして、それを終わらせてスッキリしてから遊んでいたのを覚えています。


カド・ケドといえば、毎回鬼のように終わらせていました。当時同級生の女の子で、始業式の日にカドとケドが配られると、2、3日のうちに両方1周終わらせるという化け物がいました。私にとっては「女子には負けたくない」というライバル心があり、とにかくその子に負けないように毎日カドとケドを進めていました。最終的には学期末には毎回5周とか6周くらいしていて、漢字の基礎力や計算の基礎力がついたのはこのおかげだと思います。


そこまで勉強していたので、正直小学生時代は勉強については無双していました。毎回授業では手を挙げて発表したり音読したりして、あと自慢にはなりますが、単元テストは常に100点か90点台くらいでした。テストの授業では、最初の十数分でテストを終えてしまって(すべて埋めてしまって)、そのあとやることがなくて暇で仕方なかったので、「暇で退屈だからテストは嫌い」という、普通とはちょっと違った意味でテストが嫌でした。両親が先生なので「家で勉強を教えてもらってるだろう」と周りからはよく言われましたが、全くそんなことはなく、我が家は放任主義だったので親から勉強を教わったことはほとんどありません。そもそも当時の「学校の先生」はそこまで子どもの面倒をみるほど暇ではなかったのです。


ただ、これらの話も全部せいぜい2クラスしかない小さな小学校の中での出来事です。綾里校区は大垣市立西部中学校の校区の端っこに位置していたので、小学校卒業後は西部中学校に進むわけですが、当時の西部中学校は9クラスもある、学年で300人近くいる県内でも有数のマンモス校でした。30人足らずの小学校から300人近くの中学校に進んだのでギャップが凄く、いろいろな要因も重なって、中学校に入ってからしばらくの間はうまくいかず、学業面でもなかなかうまくいきませんでしたが、それはまた今度の話にしたいと思います。


ここまで読んでいただいてありがとうございます。塾長の私の人となりを知っていただけると幸いです。もし興味をもっていただけたら、ぜひ下記までお問い合わせください。


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